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昨日の午後からは同じ様な時間帯にコンサート予定を2つ抱えていた。木曜日に一つをドロップしたので股裂きにはならなかったが、同志社大学コール・フリューゲルの合唱と市立芸大の定期演奏会は両立したかったというのが本音である。 合唱はチケットが2枚あったので音楽の好きな方に行ってもらう事にした。芸大は当日券を買わねばならないが、音楽学部の部分的演奏会にはよく行くもののオーケストラとしての演奏は小1年ばかりご無沙汰していたので、是非聴きたいと楽しみにしていた。 京都における学生オーケストラでは市立芸大がトップレベルにあると私は思っている。音楽系大学でなかっても個人的な才能を有している人は多いと思うが、プロの音楽家を目指して小さい頃より勉強してきた人が全国から集まるので、当然ともいえる。 「この数年において本学より日本を代表する主要コンクールに入賞する学生がぞくぞくと現われています。これは一心に音楽と向き合うことが出来、また、その成果を発表する機会がある、という学生にとって良好な環境が築けている証拠ではないかと思います」と芸大音楽学部長がプログラムの挨拶に書いている。 学業を本分とする大学でも趣味の域を超えたオーケストラは、歴史の積み重ねの上に成り立っている。京都大学や同志社大学がそういうケースである。何度も聴いてきたが、音楽漬けにならないとレベルの維持は難しいので、「学業のほうは大丈夫か」と他人事ながら心配するほどの演奏実力である。 これ以外にも先般聴きに行った龍谷大学交響楽団、力を付けてきている神山交響楽団(京都産業大学)などもレベルを上げてきており楽しみな存在である。高校でも京都音楽高校は別格として、同志社や洛星高校がオーケストラを編成できるのは驚きである。 これにアマチュアのオーケストラ(京都シティフィルハーモニー管弦楽団・京都フィロムジカ管弦楽団等々)を加えると京都市内には結構、オーケストラが存在している事になる。これ等の頂点が京都市交響楽団(京響)となるが、この楽団を自治体がもっているという事においては全国でも希有な存在である。 ここに吹奏楽団を加えると大学・高校・中学と一挙に裾野が広がるので、京都市の人口における音楽関係者の比率も案外高いかもしれない。更に楽器ではなく合唱団体(学校・アマチュア)もプラスし、なお、音楽愛好者(私もその一人)を突っ込んでしまうと、音楽に縁のある人は「犬も歩けば棒に当たる」状態になるのではなかろうか。 文化都市「京都」の一面である。この一行の為に随分遠回りをしたものである。2時開演の京都コンサートホールでの「市立芸大音楽学部 第126回定期演奏会」へ1時に家を出た。乗り継ぎが順調だと30分程ホールで待つ事になるが、10分前に到着した。 チケットは学生のコンサートであるから1200円と安い。手軽に質の高い本格的なオーケストラが聴ける機会という事で、何時もほぼ満席である。因みに京響の定期演奏会も三千円からチケットが買えるので有難い。ポデウム席(オーケストラの後)なら千五百円と格安である。一度座ったが音響が良いので気にならない。指揮者を向かい合わせに見る。 今回の定期演奏会は新入生を迎えて音楽学部全体が取り組む本年度最初の演奏会になる。そういう配慮からの選曲になったのか、第1曲はショスタコーヴィッチ:祝典序曲 作品96であった。舞台狭しの大編成オーケストラである。 プログラムによれば、「1954年に第37回革命記念日の為に党中央委員会より委託を受けて作曲されたものであり、ソヴィエトの偉業を讃え、喜ばしい雰囲気に満ち溢れた作品」と解説されている。他国の事ながら体は力が漲(みなぎ)り、心は高まり、バンザーイと言って走り出したい気分の曲である。 10分足らずだが、盛り上がって終わると、力が抜けて疲れがドッと出てくるみたいであった。1曲目から拍手で指揮者を舞台に戻した。第2曲目はラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番である。3楽章構成のこの曲は、ラフマニノフが初演の曲に大不評を浴びる結果が原因で極度の神経衰弱に陥り、ピアニストの能力に支障を来さなかったものの作曲不能になってしまった。精神科医の暗示療法で完治し翌年に本曲が生まれ大成功をおさめたという。 全体を通して、甘美で抒情的な旋律とピアニスティックな効果との見事な融合を見ることができる。「ピアノ独奏部では複雑に入り組んだ音型や幅広い音域に及ぶパッセージ、重厚な和音などがいたるところで用いられている。これはラフマニノフ独特の手の動きの表れであり、彼のピアノ音楽を特徴付けるものの一つと言えるであろう。 しかしながら、彼はピアノ独奏部において、いたずらに超絶技巧を見せてはいない。あくまでも、ピアノという楽器が持ちうる表現力を最大限に引き出すための手段として、それを用いている」(プログラム解説より) 舞台中央の右側の席であったので独奏時のピアノを弾く手は見えなかったが、全日本学生音楽コンクール高校生の部福岡大会1位で全国大会に出場。昨年は九州交響楽団と共演しているピアノ専攻男性4回生が好演し大きな拍手を得ていた。 20分休憩後の最後の曲はベートーヴェン:交響曲第7番である。本日のコンサートの目的は、聴いた事がない7番を聴く事にあった。CD店で探して買えば済む事だが、そういう習慣がないので生演奏で聴くのが主体となる。音楽好きにしてはケチという事か。 「1808年の『運命』『田園』から1812年に作曲した交響曲第7番と次の第8番迄の間には3年間の空白がある。この空白の3年間には“不滅の恋人”と称される女性との失恋....(割愛)ベートーヴェンが自らの語法を変化させ、新しい方向を模索していた時期でもある」「4つの楽章は夫々に固有なリズムによって特徴付けられ、リズムが楽曲の構成要素として全面に押し出されている作品である」 素晴らしい演奏であった。何度も指揮者を舞台に戻すほど拍手は鳴り止まなかった。本日感動を思い起こしなが原稿を書いているが、悲しいかな、各楽章のメロディーが耳に残っていない。初めて聴いた曲はその場での感動と帰路での余韻はあるのだが、一日経つと殆んど記憶に残っていない。こういう事が辛いのである。 よくブログに「毎夜のように『運命』を聴いている」と記しているが、過去から何百回も聴いてきたからメロディーを口ずさめる。「じゃあ、チャイコフスキーの5番はどんなメロディー?」と問われても直ぐに出てこない。好きな曲なのに、である。これは1週間前に聴いたばかりなのに。音楽が始まれば直ぐに出てくるのになあ。 やはり感動した曲はCDを買って何度でも聴いて耳に叩き込まなくては長く記憶に残ってくれそうにない。今のところの脳機能はこの辺りが限界なのだと自分に言い聞かすより仕方がない。感動と記憶が連動してくれるまで聴き続けるしか術がない。 今回の定期演奏会も3曲ともレベルの高い演奏を聴く事が出来た。会場も若い人が多く見受けられたので喜ばしい事だ。きっと日頃の活動で楽器を使っている若者に違いない。他の人の演奏を見るのは、聴くのは、彼等・彼女らの大きな学習となるに違いない。 そういう謙虚な姿勢が本人のレベルを引き上げる事に繋がる事は間違いないと信じている。文化の申し子はこういう所にも根付いてくれている。改めてプログラムの解説を見ると全て、音楽学専攻生が曲ごとに分担して書いている。さすが芸大である。 4時10分、隣接する植物園に寄ったが4時で入場は閉園(5時終了)であった。「もう5分早かったら入ってもらうのに残念です。又、ご来園下さい」。人の良さそうな園芸員が申し訳無さそうに断った。 手書きプリントの「きまぐれ園だより」をもらい、しばし立ち話となる。正規のパンフレットを求めないのは「通」の証拠(?)。昨年撮った美の感動、「ソライロアサガオ」の“ヘブンリーブリッジ”は「今年も凄い予感」と添え書きが付けられている。しかも“ツインタワー(初登場)”と付け加えてある。これは期待できるぞ! 「音楽と花」。安穏とした平和の姿、そのものである。 (7月9日) |
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